ローマ3章21節~26節 「聖書の言う罪とは何か」

聖書は、私たち人間は罪びとであることを指摘します。悪いことをしたから罪びとであると云うことではなく神によって人は造られたけれどある時から人は、曲げられ神の目的を果たせなくなってしまった状態を罪と呼びます。

車の車軸が曲がってしまったら真直ぐに進めません。私の正しさも神の正しさによって矯正されなければ真直ぐに進めないのです。神様は、人を元の道に戻すべき道を用意されました。

イエス様は『私が道だ』と云われました。私たちが進むべき道があります。それは、神のことばであるイエス様を信じその言葉によって人生の旅路を歩むことです。

恵みかおこないか

ユダヤの伝承(タルムード)にこんな話がある。ブドウ園で働く者たちがいて一日の労働が終わったので1デナリが支払われることになった。それぞれに支払いがされる中、ある男の番がやって来て同じように1デナリが支払われた。するとほかの労働者たちが主人に文句を言った。「この男はたった2時間しか働かなかったのに1デナリを払うのですか」それを聞いて主人は云った。「お前たちが1日働いたよりこの男は2時間で多く仕事をこなしたのだ」。主人は量よりも質を強調したと云う話。これとよく似た話がイエス様のたとえで語られている。どちらの話が先なのか私は、分からない。イエス様のたとえでは夕方来た人々にも同じ金額が支払われている。おそらく仕事の量は他の人よりも少なかっただろう。同じような話でも内容は全く異なる。ユダヤの伝承は人の業が強調され、イエス様の話には父なる神の憐れみと恵みが強調されている。祈る時『恵み深い天の父』と呼べる幸いを覚えたい。