私たちの教会は、、、、

沖縄中央教会は1959年4月コザ伝道館として主の摂理の中で歩みを始め、64年の

歴史を重ね、現在は日本同盟基督教団に所属する教会です。

初代牧師神山本慎師の伝道スピリットは現在の六代牧師吉永功一師に受け継がれています。教会員は現在50名余。家庭的で温かみのある教会です。

教会は沖縄本島中部沖縄市諸見里の住宅街の緑豊かな一角にあり、裏手は公園に面し静かな環境にあります。教会運営は役員会と伝道部・教育部・式典部が中心となって行われ、その他、壮年会・女性会・青年会等の活動も行っています。

皆さんの来会をお待ち致しております。

○私たちの信仰告白

 私たちの教会は日本同盟基督教団の信仰告白に生きる教会です。

 (教憲第1条)前文

 日本同盟基督教団の歴史は、15名の宣教師が横浜に上陸した1891年11月22日始まる。彼らを派遣したのは、フレデリック・フランソンが設立した北米スカンヂナビアン・アライアンス・ミッションであった。

 宣教師と牧師、信徒の協力によって生み出された諸教会は、1922年10月に日本同盟基督協会を組織し、宣教に情熱を注いだ。戦時体制下、宗教団体法施行にともない1941年日本基督教団第八部に所属したが、戦後同教団離脱し1948年10月に日本同盟基督教団として新たに出発し今日に至っている。

 本教団の存立の目的は「聖書信仰、宣教協力、合議制」における一致のもと、聖霊の力によりキリストの宣教命令に応えて、神の栄光を表すことにある。この目的のために、本教団は、犠牲を惜しまず、積極的な開拓伝道と堅実な教会形成による国内宣教および「日本とアジアと世界」を視野に入れた国外宣教を推進して、地の果てまで福音を宣べ伝える。また、過去の戦争協力と偶像礼拝の罪を悔い改め、世の終わりまでキリストの信仰を堅持する。

牧師紹介

吉永功一 牧師

沖縄中央教会牧師 吉永功一と申します。

生まれは桃太郎で有名な岡山の地で、1950年代の昭和世代になります。

沖縄中央教会の牧師の吉永功一と申します。私の生まれは桃太郎さんで有名な岡山県です。小学校の時交通事故にあいました。事故はそれほど大変なものではありませんでしたが、それ以降親たちは、特に母親は非常に心配する等になり、過保護ともいえる状況になりました。もともとその傾向はあったのですがこの事故以降更に拍車をかけました。この傾向は、私が中学、高校になってもあまり変わりませんでした。こんなことでどうなるんだろうと私の心の中で悩みが起こりました。『親から離れなければダメになる』そういう思いが沸き上がりました。そんな折高校を卒業しどこに就職するかということになりました。私は親からできるだけ干渉を受けない遠くの地を選びました。親にしてみればそんなに遠くに行かなくてもと思ったことでしょう。その当時は地元就職組が多かったのです。

 親からの反対はありましたが、ここで自立しなければという思いが強く、ついに就職先は茨城県にあるある会社に決まりました。岡山を出て茨城の地に常磐線と云う鉄道に乗り4月の初頭にその地に降り立ちました。岡山とは違ってその地はまだ寒く「遠くに来たもんだ」という思いに満たされました。私の性格からすれば、そういう突拍子なことをしない性格でしたが、親から逃げ出すためと云うことで茨城の地に降り立ったのです。

 私にはクリスチャンの叔母がいてそのころ叔母から教会に行かないかと云う勧めがありました。私は叔母に対して親しみを感じていましたので素直に教会に行こうと思いました。それに親元を離れていたので『自由な気分』に満たされていたのです。地元の岡山にいたのではおそらく教会の門をくぐることはなかったでしょう。

 18歳の夏だったと思います。教会に行く決心をしました。教会は一つ隣の駅にありました。電車に乗りそして歩いて教えてもらった教会に向かいました。しかし教会のあるであろう場所に行ったのですが教会は見つかりません。教会だから十字架がそびえたっていると想像して十字架を目当てに探したのです。でも見つかりません。その日は断念して帰りました。後に分かったのですが、教会には十字架はなく『日立福音キリスト教会』という看板だけだったのでした。電話をかけ再チャレンジをしました。日曜の朝電話で教えてもらったところに行くと教会はありました。私と同年代の女性が受付をされていてにっこりと笑い教会に案内してくれました。このように私のイエス様に向かう霊的な旅は始まったのでした。