聖書箇所「マタイ6章22節~24節
説教題「二人の主人」
説教 吉永功一牧師
聖書のエキス
マタイ6章24節の『二人の主人』とは、一つは神であり、もう一つは富です。そしてその富の裏側には神の敵が潜んでいます。神の敵は、かつてイエス様にこの世界の栄華を見せ、神の敵を拝みさえすればその富を与えると誘惑しました。更にもっと前には、人類の最初の女性エバに現れてこう言いました。『あなたがそれを食べる時、あなたの目が開け、あなたが神のようになり、善悪を視るようになる。』と神に禁じられた木の実を食べるように勧めます。彼女は誘惑にのり、神を自分の神としないで神の敵の言葉を信じ自分の主人としました。彼女は神を捨て神の敵を選んだのです。私たちの前にもこの二人の主人がいます。それを曖昧にすることはできません。どちらが、私の主人なのか、日々決断を求められています。
ミサ
ミサと云う言葉は、プロテスタントでは〈聖餐〉に当たると思われます。ミサの制度は中世中期に(紀元10世紀ごろ)大成します。残念ながら聖書の聖餐から離れた点は否めません。
神が信仰者のために、恵みの手段として供えられるのが聖餐。司祭が神のために、人の罪に怒る神をなだめるために行うのがミサ。このため、本来司式者が会衆に向かうが、ミサでは祭司が会衆を背にして神に向かう形をとります。また、怒れる神をなだめるためキリストはミサごとに十字架の犠牲を繰り返すので、キリストの像がかかったままの十字架が用いられます。聖餐であれ、ミサであれ、そこに見いだされるお方が、恵み深い神なのか。怒かれる神なのかでは大いにそれは違ってきます。
丸山忠孝著 『キリスト教会2000年』より